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神戸地方裁判所 平成元年(ワ)1095号 判決 1992年1月31日

原告

山﨑廣幸

被告

神戸市

主文

一  原告兼亡山﨑勝實訴訟承継人の主位的請求を棄却する。

二1  被告は、原告兼亡山﨑勝實訴訟承継人に対し、金六二四万円及びこれに対する昭和六三年九月一九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  原告兼亡山﨑勝實訴訟承継人のその余の予備的請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを五分し、その三を原告兼亡山﨑勝實訴訟承継人の、その二を被告の、各負担とする。

四  この判決は、原告兼亡山﨑勝實訴訟承継人勝訴部分に限り、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1(主位的請求)

被告は、原告兼亡山﨑勝實訴訟承継人(以下「原告」という。)に対し、金一七〇八万四〇〇〇円及びこれに対する昭和六三年九月一九日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2(予備的請求)

被告は、原告に対し、金七八〇万円及びこれに対する昭和六三年九月一九日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

3 訴訟費用は被告の負担とする。

4 仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、亡山﨑千代(明治四二年五月一四日生。以下「亡千代」という。)の子であり、亡山﨑勝實(以下「亡勝實」という。)は、亡千代の夫であり、原告の父である。

2  交通事故の発生

次の交通事故が発生した(以下「本件事故」という。)。

(一) 発生日時 昭和六三年九月一九日午前一一時三〇分ころ

(二) 発生場所 神戸市西区糀台五丁目一一番地先路上

(三) 加害(被告)車 被告が雇用する藤本昭文運転の大型乗用自動車(市バス)

(四) 被害者 亡千代

(五) 事故の態様 加害(被告)車が横断歩行中の亡千代と衝突した。

3  責任原因

(一) 被告は、本件事故当時被告車を保有し、自己のために運行の用に供していた。

(二) よつて、被告には、自賠法三条に基づき、原告の後記7主張の損害を賠償する責任がある。

4  亡千代の受傷内容及び治療経過

(一) 受傷内容

亡千代は、本件事故により左大腿骨頸部内側骨折、左腓骨神経不全麻痺の傷害を受けた(以下「本件受傷」という。)。

(二) 治療経過

亡千代は、本件受傷のため、本件事故当日である昭和六三年九月一九日、明石市立市民病院に入院し、同月二八日、股関節部分の左大腿骨側の接合部分(骨頭)を切り取り、これを人工骨頭に取り替える手術(以下「本件人工骨頭置換術」という。)を受け、同年一〇月三日から歩行訓練を開始し、同年一〇月一一日中神クリニツクに転医して入院治療し、同年一一月二二日に同クリニツクを退院した。

5  亡千代の自殺及び本件事故との因果関係(主位的主張)

(一) 亡千代の自殺

亡千代は、昭和六三年一二月一七日、自ら命を絶つた。

(二) 亡千代の自殺と本件事故との因果関係の存在

(1) 亡千代の本件事故前の生活状態等

(イ) 亡千代は、本件交通事故前は、夫である亡勝實とともに、息子の方に居住していたが、原告は、会社員として安定した収入を得ており、妻美智子(以下「美智子」という。)との間に二人の子をもうけ、夫婦仲もよく堅実な家庭を築いている。

(ロ) 亡千代は、元気に炊事、洗濯等をこなし、買い物に出たりして、将来に何の不安もない老後の生活を楽しんでいた。亡千代の性格は明るく、その健康状態ももちろん良好で、家族関係も円満であつた。

(2) 本件事故後の亡千代の肉体的・精神的状態

(イ) 本件受傷である左大腿骨頸部内側骨折は、老人にとつては最も治りにくい骨折であつて、そのため、亡千代は、本件人工骨頭置換術を受け、同手術は成功し、亡千代はリハビリテーシヨンの過程にあつたが、リハビリテーシヨン終了後においても、運動制限が残存し、異物感が残ることも否定できない。

(ロ) 亡千代は、昭和六三年一一月二二日、中神クリニツクを退院し、自宅療養を開始したところ、右退院後の日常生活は、(a)自力で立ち上がれない、(b)水平なところでゆつくり歩行することはできるが、段差のあるところは歩行できない、(c)入浴や用便は自力でできず、トイレは、部屋にポータブル・トイレを置き、その側に机を置いて、それに寄り掛かつて立つようにしていた、(d)外出は週に一回、病院に通院するだけで、歩いてでも行ける距離だつたが、美智子の付添いで、タクシーに乗つて行かなければならなかつた、(e)布団の上げ下ろしを始め、日常の家事一切ができなくなつた等、障害は顕著で、かなりの介助を要した。

また、亡千代は、股関節の繋いだ部分に段差があるように感じるとの違和感を訴えていた。

(ハ) 亡千代は、本件受傷の治療のための入院中、見舞いに訪れた被告の職員の前で、「この病院の窓から飛び降りたい。」と漏らしたり、原告の妻の姉や妹が見舞いに訪れた際に、「こんな体にまつてしまつて、もう何の楽しみもないので死んでしまいたい。」と述べていた。

また、亡千代は、退院後も、原告や美智子に対し、「行きたい所にも、一人で自由に行けないのが辛い。」、「こんな体になつてしまつて、みんなに迷惑をかけている。好きなこともできない。死んでしまいたい。」と頻繁に述べたり、亡千代の実弟に宛てた手紙の中では、「死にたい。」と何回も書いたりするなど、自己の障害を嘆き、思い悩んでいた。

(3) 以上のとおり、亡千代は、本件事故により、七九歳にもなつて突然、右(2)記載のような肉体的障害を負い、それに起因する精神的状態に陥つて、家族に多大の苦痛を与えるに至つたことに悩み、将来に絶望し、昭和六三年一二月一七日、自ら死を選択したものである。

右一連の事実関係に基づくと、亡千代が、本件事故により、右の如き精神状態に陥ることは、本件事故により亡千代が受けた傷害の部位・程度及び後遺障害の内容・程度と、亡千代の年齢を考慮すれば、通常あり得ることである。

よつて、亡千代の自殺と本件事故の間には相当因果関係があるというべきである。

6  亡千代の後遺障害の内容及び程度(予備的主張)

仮に、亡千代の自殺と本件事故との間に相当因果関係が認められないとするならば、

(一) 亡千代は、本件受傷のため、左大腿骨について人工骨頭置換術を受けており、この場合の後遺障害は、股関節の用を廃したものとして、自賠責保険後遺障害等級八級に該当する。

(二) なお、亡千代は、生前、本件受傷につき症状固定の診断をまだ受けていなかつた。しかし、同人は、当時一か月に一回通院することになつていたものの、リハビリテーシヨンは施行されていなかつたこと、股関節の骨頭を人工骨頭に置換した場合の後遺障害は、前記のとおり自賠責保険においても、下肢の三大関節中の一関節の用を廃したものとして障害等級八級に該当すると取り扱われているのであつて、人工骨頭置換術を受けたこと自体から相当程度の障害を免れないこと、亡千代の現実の生活状態や年齢から見て、当時の障害を軽快させるのは不可能と考えられること等から、裁判所が、亡千代の本件後遺障害の内容程度についての認定をすることは十分に可能である。

(三) よつて、亡千代は、本件自殺当時、被告に対し、既に右後遺障害分慰謝料を請求し得たというべきである。

7  亡千代の損害

(一)(主位的主張) 合計金一七〇八万四〇〇〇円

(1) 逸失利益 金一二八万四〇〇〇円

(イ) 亡千代の受給していた国民年金 月額金三万二四八三円

(ロ) 亡千代の死亡時(七九歳)の平均余命 八・六四年

(ハ) 八年間の新ホフマン係数 六・五八八六

(ニ) 生活費控除率 五割

(ホ) 計算式

3万2483(円)×12×6.5886≒256万8000(円)

256万8000(円)×0.5=128万4000(円)

(2) 慰謝料 合計金一五八〇万円

(イ) 傷害分 金八〇万円

(ロ) 死亡分 金一五〇〇万円

(二)(予備的主張) 合計金七八〇万円

慰謝料 合計金七八〇万円

(1) 傷害分 金八〇万円

(2) 後遺障害分 金七〇〇万円

8  相続

(一) 亡千代は、原告の母であり、亡勝實の妻であるところ、原告及び亡勝實は、亡千代の本件自殺による死亡により同人の右損害賠償請求権の全額(主位的に合計金一七〇八万四〇〇〇円、予備的に合計金七八〇万円)をそれぞれ法定相続分にしたがつて二分の一ずつ相続した(それぞれ主位的に金八五四万二〇〇〇円、予備的に金三九〇万円)。

(二) 亡勝實は、原告の父であるところ、本件訴訟係属中の平成二年一月一九日死亡し、子である原告が、相続により亡勝實の法律上の地位を承継した結果、結局、亡千代の前記損害賠償請求権の全額を単独で相続取得した。

9  よつて、原告は、自賠法三条に基づき、被告に対し、本件損害賠償として、主位的に金一七〇八万四〇〇〇円及びこれに対する不法行為の日(本件事故発生日)である昭和六三年九月一九日から右支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の、予備的に金七八〇万円及びこれに対する右同日から右支払ずみまで右同率の割合による遅延損害金の各支払を求める。

二  請求原因に対する被告の答弁及び主張

1  答弁

(一) 請求原因1の事実は認める。

(二) 同2の事実は認める。

(三) 同3(一)の事実は認める。

同3(二)の主張は争う。

(四) 同4の各事実は認める。

(五) 同5(一)の事実は認める。

同5(二)の事実及び主張は争う。

(六) 同6(一)の事実のうち、亡千代が、本件受傷のため、左大腿骨について人工骨頭置換術を受けたことは認めるが、その余の事実及び主張は争う。

同6(二)の主張は争う。

(七) 同7の主張は争う。

(八) 同8の主張のうち、亡千代、亡勝實及び原告の身分関係、相続関係は認めるが、その余の主張は争う。

(九) 同9の主張は争う。

2  主張

(一) 亡千代の自殺と本件事故との間の因果関係の存否について

(1) 交通事故とその被害者の自殺との間に相当因果関係の存在を認めるためには、被害者が、その被つた精神的・肉体的苦痛のために自殺を決意し、これを実行することが、右事故により通常生ずる結果といえるか、あるいは、加害者において、被害者が事故により受けた苦痛のために自殺するに至ることを予見し又は予見し得る状態にあつたといえることが必要である。

(2) しかし、本件事故により亡千代が被つた本件受傷のうち、左腓骨神経不全麻痺は一時的なもので、昭和六三年一〇月一一日には消滅していた。

また、左大腿骨頸部内側骨折についても、同年九月二八日の本件人工骨頭置換術と、その後の歩行訓練等により、同年一一月二二日の中神クリニツクの退院時には、平坦な道では一応歩行器を使わず自力でゆつくり歩けるようになつていたし、日常生活においても、食事やトイレは一人でできる状態であり、下肢の運動能力は将来、かなり改善していくと思われていた。

(3) 亡千代は、中神クリニツクに入院中は、機能回復訓練に非常に積極的に取り組み、その他、受傷に伴う疼痛の訴えはなく、退院時には、非常に嬉しそうな顔をしていた。

(4) 以上の事実関係によれば、亡千代が、本件事故のために、自殺を決意し、これを実行することが、通常生ずる結果といえるような精神的・肉体的苦痛を被つたとはいえない。

加えて、亡千代の退院後、同人と一緒に生活していた美智子から見ても亡千代が自殺するようなことは思い当たらなかつたのであるから、ましてや、被告において、同人の自殺を予見し又は予見し得る状況にはなかつた。

亡千代は、もともと、自分の体に対して非常に神経質であり、本件事故後もいたずらに将来を悲観し、悪い方ばかりに思い詰めて、その結果自殺を図つたのである。

よつて、本件事故と亡千代の自殺との間には、相当因果関係はない。

(二) 亡千代の自殺に対する本件事故の寄与度について

(1) 交通事故の被害者が自殺した場合に、割合的因果関係の理論又は事故の自殺への寄与度に応じて加害者の責任を認める理論等により、加害者に一定の賠償責任が認められるのは、事故による被害者の受傷の程度が相当重いか、あるには当該受傷自体は重くなくても、右受傷により被害者が二次的に重篤な神経症状を呈し、そのため、被害者の自由意思が制約され、そのことが、自殺の一因となつたかあるいは自殺に寄与したと判断される場合に限定されるべきである。

(2) ところが、本件においては、亡千代の本件受傷の程度は、人工骨頭置換術及びその後の歩行訓練等の結果、重症というほどのものではなくなつており、また、その後、亡千代が、本件事故による受傷を原因とする重篤な神経症状を呈した事実もない。

したがつて、亡千代の自殺は、その自由意思に基づくものであり、本件事故の寄与度は皆無である。

(三) 亡千代の死亡による逸失利益の請求について

仮に、亡千代の自殺と本件事故との相当因果関係が肯定されるとしても、原告の逸失利益の請求は、原告が、亡千代の国民年金の受給権を相続したことを前提とするものであるところ、亡千代が受給していた国民年金が老齢基礎年金であるとすると、その受給権は、一身専属の権利であり、国民年金法二九条により、本人の死亡によつて消滅するから、相続されないものである。

仮に、被告の右主張が認められないとしても、亡千代の受給していた年金月額金三万二四八三円からの生活費控除が、原告の主張するように二分の一にとどまるとすることは、昨今の我が国の物価高や必要生活費からすると、大人一人の生活費として極めて窮屈であり、実態に合わないというべきである。

(四) 亡千代の後遺障害を理由とする慰謝料の請求について

(1) 後遺障害とは、被害者の精神的・身体的毀損状態の、永久的・半永久的残存が、医学的・客観的に立証されたものであり、その認定は、治癒又は症状固定の時に行われる。

治癒又は症状固定の認定は、医師の認定による場合と、客観的な判断による場合とがあるところ、客観的な判断による認定とは、事故による受傷時に、既に後遺障害が残ることが明らかで、その程度も容易に判定できる場合に限り、この場合には、被害者の診療の終了又は医師の診断を待たずに後遺障害の相当等級が認定される。

しかるに、本件において、亡千代は、本件受傷が治癒又は症状固定する以前に自殺したので、後遺障害の認定は、医師の認定によることはできず、客観的な判断による認定によらざるを得ない。

しかし、亡千代が自殺したために、人工骨頭置換術によつて同人に後遺障害が残るか否か、残るとしてその程度は如何ということを容易に判定できず、客観的な判断による認定は不可能である。

よつて、亡千代は、被告に対し、本件後遺障害に基づく損害賠償請求権を有しない。

(2) また、後遺障害に基づく慰謝料及び逸失利益の各請求権はいずれも、被害者が将来的に生存することを前提に認められるものであり、本件のように、被害者が自殺により死亡した以上、これらの請求権を認めるべきではない。

第三証拠

本件訴訟記録中の書証目録及び証人等目録の記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

第一主位的請求

一  原告側の身分関係

原告が亡千代(明治四二年五月一四日生)の子であり、亡勝實が亡千代の夫で、原告の父であることは、当事者間に争いがない。

二  本件事故の発生

請求原因2の事実は、当事者間に争いがない。

三  被告の責任原因

請求原因3(一)の事実は当事者間に争いがない。

よつて、被告には、自賠法三条により、原告の後記七の損害を賠償すべき責任がある。

四  亡千代の受傷内容及び治癒経過

請求原因4の各事実は、いずれも当事者間に争いがない。

五  亡千代の自殺及び本件事故との因果関係

1  亡千代が、昭和六三年一二月一七日、自ら命を絶つたことは、当事者間に争いがない。

2  右当事者間に争いのない事実(前記四の事実をも含む。)に、いずれも成立に争いのない甲第二、第三号証、第五号証、第八号証ないし第一〇号証、乙第一号証、証人山崎美智子、同中神一人の各証言、原告本人尋問の結果(ただし、証人山崎美智子、原告本人の右各供述中後記信用しない各部分を除く。)及び弁論の全趣旨を総合すれば、次の各事実が認められる。

(一) 亡千代は、本件事故前、夫である亡勝實とともに、息子の原告方に同居し、原告・美智子夫婦やその間の二人の子供達と円満な生活を送り、また健康状態も良好であつた。

(二) 亡千代は、昭和六三年(以下同じ。)九月一九日、本件事故による本件受傷のため、直ちに神戸市西区狩場台所在の中神クリニツクに搬入されたが、左大腿骨頸部内側骨折の診断を受けて、同日、明石市立市民病院に転院のうえ、同病院に入院した。

亡千代は、明石市民病院において、左大腿骨頸部内側骨折のほか、左腓骨神経不全麻痺の診断を受け、同月二八日、左大腿骨につき、股関節の部分の大腿骨側の接合部分を切り取つて、人工のもの(金属)に取り替える本件人工骨頭置換術を受け、一〇月三日から歩行訓練を開始した。

(三) 亡千代は、一〇月一一日、家族の都合により、再び中神クリニツクに転院し、主にリハビリ目的で入院した。

亡千代の本件受傷のうち、左腓骨神経不全麻痺は、左大腿骨頸部内側骨折に伴う一時的なものであり、中神クリニツクに転院した時点では消滅していた。

亡千代は、右時点では、まだ自力での歩行は全く不可能で、同日から同月一七日まで、ベツドの上で機能訓練に取り組み、同月一八日からは、歩行訓練を開始した。

(四) 亡千代は、中神クリニツクでの入院中、機能回復訓練に積極的に取り組み、そのため、歩行訓練は、順調に進み、初めは歩行器を使用し、介助を受けながら行われたが、やがて、平坦な道では自力でゆつくりと歩行したり、階段を昇降することも可能となり、夜間排尿のためトイレ(洋式)に一人で行つたり、ゴミを自分で捨てに行くとか、中神クリニツクの周辺にある店まで一人で散歩に行くこともできるようになつた。

また、亡千代は、一一月以降、左股関節痛を訴えることもなく、歩行時のふらつきもほとんど認められず、病室では付添婦や看護婦と談笑したり、明朗で快活な態度がみられ、食欲も良好で普通食を全量摂取することが多く、本件受傷による後遺障害を苦にしたり、将来を悲観する言動・態度は全く認められなかつた。

そして、亡千代は、中神クリニツクを退院する前日の一一月二一日には、看護婦らに、「長い間お世話になりました。」とにこやかに話していた。

もつとも、亡千代には、自分の身体状況に対しかなり神経質な面もあり、少し咳が出ると、以前に罹患した結核が再発したのではないかと心配をし看護婦にその旨を話し、内科専門医の診察を受けたい旨申し述べたこともあつた。

(五) 亡千代は、一一月二二日に退院し、しばらくの間、二週間に一度ほど中神クリニツクに通院して経過を観察することとし、自宅療養を開始した。亡千代は、退院時には、非常に嬉しそうな顔をしていた。

亡千代の右退院の時点における回復状況は、日常生活においてかなりの介護を要するものの、平坦な道なら歩行器を使わず自力でゆつくり歩けるようになつていたし、日常生活においても、食事は自分でとることができ、トイレも洋式なら一人でできる状態であつた。

(六) また、亡千代の下肢の運動能力は、中神クリニツクを退院した時点で、まだ回復の過程にあり、症状の固定までは更に少なくとも半年を要すると見込まれ、右退院後もある程度の改善を期待し得る状態であつた。

もつとも、亡千代の股関節は、左大腿骨の骨頭の上から約三分の一を人工の骨頭に取り替えた、いわゆる人工関節になつており、その運動能力は健常の関節と比べて当然に制約があり、異物感が残るうえ、亡千代が老齢のため、関節を動かす靱帯や筋肉の機能の回復が遅れることが予想されるため、左大腿骨頸部内側骨折による障害が完全に回復することは難しく、症状固定しても、後遺障害としてかなりの機能障害の残存が予想された。

なお、自賠法の障害等級認定基準によれば、下肢に人工骨頭を挿入置換した場合には、下肢の三大関節中の一関節の用を廃したものに該当する。

(七) 亡千代が原告宅で自宅療養を開始した後の日常生活の状況は、概ね次のとおりである。

亡千代は、(1)入浴については、屈んで下着を脱ぐこと、浴槽に自分で足を上げて入つたり出たりすること、体を洗うことについて原告の家族、主として美智子による介助を受け、(2)階段の昇降については、一人では危ないと見られたので、原告の家族による転倒防止のための介助を受け、(3)用便については、洋式トイレなら一人で使用できたのであるが、原告の家にある洋式トイレを用いずに、自分の部屋にポータブル・トイレを置き、その側に机を置いて、それに寄り掛かつて立つようにして行い、(4)外出は週に一回、他の病気の治療のため内科の病院に通院するだけで、それも、美智子が付添い、タクシーに乗つて行く状態であり、(5)その他、布団の上げ下ろしを始め、日常の身の回りの世話を主として美智子に頼ることになつた。

亡千代は、以上のように、自分の存在が何かと家族の負担になつていることを気にしながら、美智子に対し、股関節の繋いだ部分に段差があるように感じるという違和感を訴えていたほか、毎日のように、本件事故について、「青信号で年寄りが横断歩道を渡つているのに、どうして待つてくれなかつたのか。」等と話していた。

(八) 亡千代は、一二月一七日午後二時ころ、自宅裏庭の物置内の棚の桟にビニール製ロープを掛けて首を吊り、自殺した。

しかしながら、自殺直前の亡千代の様子については、同居の家族から見て、特段変わつた様子もなく、家族としても亡千代の自殺の理由について思い当たる節はなかつた。

3  右認定に反する証人山崎美智子、原告本人の各供述部分は、前掲各証拠と対比してにわかに信用することができず、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

4(一)  ところで、交通事故による被害者がその後自殺した場合、加害者に対し、被害者の右死亡による損害賠償義務を負わしめるためには、右事故と右自殺との間に相当因果関係が存在すること、すなわち、右事故の被害者がその被つた精神的・肉体的苦痛のため自殺を決意しこれを実行するということが事故によつて通常生じる結果といえるか、あるいは、加害者において、被害者が事故によつて受けた右苦痛のため自殺に至ることを予見し又は予見し得る状況にあつたといえることが必要と解するのが相当である。

(二)  これを本件について見ると、亡千代の本件受傷の内容、その治療経過と治療効果、同人の中神クリニツク退院時における回復状況、同人の右退院後における生活状態、特に、同人と同居していた同人の家族らが亡千代の本件自殺を予想外の事実と見ていること等は、前記五、六で認定したとおりであつて、右認定各事実に照らすと、亡千代の年齢や、同人の左大腿骨頸部内側骨折による症状が完全に回復することが難しく、同人が退院後、美智子や他の同居家族の介助を受けることを負担に感じていたことを考慮に入れたとしても、亡千代が本件事故によつて被つた精神的・肉体的苦痛のために自殺を決意しこれを実行することが通常生ずる結果であつたとは、未だ認めることができず、また、他に被告において、亡千代の自殺を特別に予見し又は予見し得る状況にあつたことを認めるに足りる的確な証拠もない。

(三)  以上の認定説示から、結局、亡千代の本件自殺と本件事故との間に相当因果関係の存在は、これを肯認し得ない。

5  原告の本件主位的請求は、同人の本訴主張内容からして、その全て(傷害分慰謝料を含む。)が、亡千代の本件自殺と本件事故との間の相当因果関係の存在を前提としていると解される故、右相当因果関係の存在が肯認し得て初めて、その当否を検討し得るところ、右相当因果関係の存在が肯認し得ないことは前記認定説示のとおりである。

しからば、右主位的請求は、その主張の当否について判断するまでもなく、右説示にかかる相当因果関係の存在の点で既に理由がない。

第二予備的請求

一  原告側の身分関係、本件事故の発生、亡千代の本件受傷内容及びその治療経過等は、全て主位的請求に対する前記認定説示と同じである。

二  亡千代の後遺障害の存在及びその程度

1  亡千代が中神クリニツクを退院した当時から本件自殺当時までの症状の内容は、前記五、2で認定したとおりである。

2(一)  しかして、亡千代が中神クリニツクを退院した当時、同人の下肢の運動能力はまだ回復の過程にあり、後遺障害の症状が固定したという診断を受けるまでに、右時点から更に少なくとも半年を必要とする状態であつたことは、右認定のとおりであるから、同人に将来どのような後遺障害が残るのか、またその程度について、医学的治療の面では未確定であつたといい得る。

(二)  しかしながら、亡千代の股関節は、左大腿骨の骨頭の上から約三分の一を人工の骨頭に取り替えた、いわゆる人工関節になつており、健常の関節と比べて当然に制約があるうえ、同人が老齢のため、関節を動かす靱帯や筋肉の機能の回復が遅れることが予想されたため、完全な回復は難しく、ある程度の機能障害の残ることが予想されたこと、自賠法の障害等級認定基準によれば、股関節の骨頭を人工骨頭に置換した場合は下肢の三大関節中の一関節の用を廃したものに該当する障害とされており、一般に、人工骨頭置換術を施す必要のある傷害の場合には、相当程度の後遺障害が残るとされているものと認められること、亡千代は、自殺当時、二週間に一回程度の割合で様子を見る予定があつたのみで、リハビリテーシヨンは施行されていなかつたことは、前記認定のとおりであつて、右認定各事実を総合すれば、亡千代の本件受傷は、同人の本件自殺当時、症状固定の診断を得ずとも、客観的には症状固定の域に達して右認定内容の後遺障害が残存するに至つた、そして、その程度は、少なくとも後遺障害別等級表八級六号に該当すると認めるのが相当である。

右認定説示に反する被告の主張は、当裁判所の採るところではない。

三  原告の損害について

1  亡千代の慰謝料 金六二四万円

前記認定にかかる亡千代の本件受傷の内容及びその治療経過、本件後遺障害の内容・程度や、亡千代の本件事故時から本件自殺時までの年齢その他本件に現れた諸般の事情を総合すれば、亡千代の本件事故による慰謝料は、金六二四万円と認めるのが相当である。

2  相続

(一) 亡千代が原告の母であり、亡勝實の妻であること、亡千代が本件自殺によつて死亡した後、原告の父である勝實が、本件訴訟係属中の平成二年一月一九日死亡し、それぞれ相続が開始されたことは、当事者間に争いがない。

(二) そして、亡千代は、前記損害賠償請求権金六二四万円を有していたところ、右(一)の事実及び弁論の全趣旨によれば、亡勝實と原告は、亡千代の本件自殺により、同人が被告に対し有していた右損害賠償請求権金六二四万円を法定相続分にしたがい、その二分の一ずつを相続したが、その後、亡勝實の死亡により、原告が亡勝實の法律上の地位を相続承継して、結局、原告が亡千代の右損害賠償請求権全額を相続したと認められる。

四  右認定説示から、原告は、被告に対し、本件損害金六二四万円及びこれに対する本件不法行為の日(本件事故発生日)であることが当事者間に争いのない昭和六三年九月一九日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める権利を有するというべきである。

第三全体の結論

以上の全認定説示に基づき、原告の本訴主位的請求は、全て理由がないから、これを棄却し、本訴予備的請求は、前記認定の限度で理由があるから、その範囲内でこれを認容し、その余は理由がないから、これを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 鳥飼英助 三浦潤 亀井宏寿)

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